米は守られる2009/03/24 22:20

今日の朝日新聞の夕刊12面「たまには手紙で」のコーナーは、橋爪功さんと野田秀樹さんの往復書簡の最終回でした。原文は朝日新聞を当たっていただきたいのですが、その中に、野田秀樹さんがある農家から聞いた話として、『母屋は少し前までは茅葺屋根でした。それが屋根を葺く職人がいなくなったために維持できなくなり、ありきたりの屋根に変ってしまった。(中略)「茅葺を葺く人間さえいれば茅葺は守られる」。同様に「米を食う人間がいれば米は守られる」。(中略)言葉もそうですよね。(中略)こういう言葉を使う人間が減ってしまえばその言葉は意味を失う。(中略)ひとたび消えた文化は二度と再現はできない。再び現れる時は、胡散臭い伝統主義や懐古主義としてです。それは「新しい伝統」にすぎません。(後略)』
引用の省略が多くて、きっとわかってもらえないんじゃないかと思ってしまいますので、原文にあたっていただければと思いますが、この記事を読んでトルミスさんの「忘れられし民族」という6つの組曲からなる合唱のシリーズを思ってしまいました。これはフィンランド周辺のもう本当に人が少なくなってしまった民族の言葉による民謡の合唱曲集ですし、もちろんこの曲集はコンポーズされたもので、単純に失われつつある伝統を残そうとして作られたものではないとは思います。トルミスさんというエストニアを代表する作曲家の一人によって、ひろく失われつつある文化が紹介されたということはありますが、しかし、それであっても失われつつある文化はきっと加速度的に失われてしまうことでしょうし、もうすでに完全に死語になってしまっているかもしれません。これは日本にもあることで、アイヌ民族の方たちが一生懸命、言葉や文化を残そうとしていますが、しかし、日常的にその言葉を使ったり、文化に基づいた生活を送らないかぎり、早晩、その文化は失われてしまうことになるのでしょう。これはもしかしたら日本の将来かもしれません。世界のグローバル化が加速度的に進む時代には、ローカルに生きることが非常に難しくなってしまうように思います。でも、「米を食う人間がいれば米は守られる」のなら、米を食っていけばいいのですね。文化を継承するということは、今の時代にはある程度の面倒さが付きまとってしまいますが、それを引き受けることが必要なのでしょう。